08.03.30, 19:09

がんばるねー

 今日で1週間、父ネタのブログが続く。
 読んで頂いている方もおそらく、これまでの私の書く内容から正直なところ、もうお亡くなりになったのだろうか?とブログへのお立ち寄りをされているのではなかろうか?
 何より、父のブログネタが始まってから、一日あたりのアクセス数が飛躍的に伸びている。
 私ももう・・・とは思っているが、ここまで来て、政治や経済、あるいは教育ネタを書いても「なにー!?」との思いになられるだろう。
 本日も、朝一番から昨夜泊まった弟に電話してみる。
 意識が全くないわけでもなく、何となく色々とわかっている感じさえする、とのこと。
 「血圧も安定しており、兄貴、今日、どうこうは無いのじゃないか」と言われ、何となく安心。
 その後、一度病室に来た母もこれなら、と髪の毛のセットに出かけたほどである。
 私も今夜泊まる妹のいる病室に一度見舞いに出かけたが、昨日よりも幾分顔色も良い感じがする。
 何も話さないが、不思議と口に小さく砕いた氷を入れると、ガリガリと噛むのである。
 どこにそんな力が残っているのだろう。
 本当のところ、礼服やら色々と用意をし始め、ばたばたしたのだが、有り難い拍子抜けだった。
 明日は朝から、私が担当する研修があるだけに、心配もしていたが、どうやら行けそうな感じで良かった。
 それにしても、さすがに世に憚る西岡家である。
 「お父さん、がんばるねー!」
posted by nishioka   プライベート    

08.03.29, 23:31

最期を迎える本音

 毎日、このブログで父のことについて書いていると、本当に多くの方に、「お父様、いかがですか?」と時候の挨拶のように決まったように尋ねられ、こちらが恐縮してしまう。
 今日は、とうとう、主治医の先生に「どなたかお会いさせたい人がおられたら、今のあいだにお声かけください」と言われたそうだ。
 一瞬開いた右目が真っ赤になっていたそうだが、この眼底出血も肝不全の一つの特徴とのこと。
 いよいよ、マジにXデイが迫ってきたようだ。
 だが、本当にお別れとなればどのように感じるのか自分でも予想できないが、私は不思議とその時を落ち着いて待っている。
 これだけ長く、頑張ってきて、もう最期のお別れも父とは既に済ませたような気持ちだ。
 私たち家族を一番に考え、一生懸命働き続けてくれた父。
 時間を含めた約束を必ず守った父。
 自宅でさえ、裸や下着姿で歩くことなどなかったほど、私と異なり、平素の生活も乱れることなかった父。
 最後の最期になって、母としっかりと話し合えたのではないだろうか。
 今夜は、母に代わって弟が泊まり、明日は妹が父のそばに泊まる。
 もう何も話さない父だが、羨ましいほどの最期である。
 私の親友のお坊さんが、電話で話してくれた。
「全ては死ぬときに決まる」
 そうであれば、最高のお別れだ。
 これからも、心の中に生き続けてくれる気がする。
posted by nishioka   プライベート    

08.03.28, 23:42

本当の仕事

 父の主治医の先生が今後の医療法について尋ねたいことがあるということで、病院を訪ねた。
 母と二人、主治医の先生の前に座り、今後、痛みを伴う様子を父が見せた時、鎮痛剤の投与をしても良いのか?
 そのことにより、父の寿命が短くなる可能性があるが、それを家族の方々、みんな了承できるのか?
 本来なら、父に直接尋ねたかったが、今はそれもままならぬ状況になっているが、その場合の代わりとなりうる人がだれなのか?
 一番良いのは、このままの状態で見守ってあげることだが、それに耐えることが出来るか?
 色々な質問が飛ぶが、決して主治医の先生は矢継ぎ早に話されている感覚はしないし、むしろ、一貫して優しく語りかけてくれており、常に患者の家族に対しての配慮がある感じがする。
 この緩和ケアセンターに父が入ってから、母の様子が本当に穏やかだ。
 一般病棟にいる時は、もう母も看病の限界だから、何とかしなければ、との思いに駆り立てられ、父の病状よりも周囲がダメになってしまったら、何もならないとよく思ったものだ。
 ところが、この緩和ケアセンターでは、常に患者とその家族を同じ場所に位置づけ、ケアは患者だけではなく、その家族にもしっかりスポットを当ててくれていることが有り難い。
 そうなのだ!
 実は、病院の仕事は、患者の病気を治すことだと思っていたが、それだけではなく、場合によっては(特に末期癌など死に直面している場合は尚更だが)患者の家族の心のケアが大きな仕事であると感じた。
 それが実践できているこの病院はすばらしいし、最期の最期になって、父がこんな場所に入れたことが有り難くて仕方ない。
 自分の仕事への置き換えもしてみた。
 例えば、能力開発の教室に入れられる保護者の方は、もちろん、そのお子さんの能力を伸ばす、或いは知識を身につけることにその代価を支払われることはよく理解している。
 しかし、実は、お子さんだけではなく、その保護者の方々に対するケアがとても重要な仕事であり、それができないで、お子さんの能力開発もないのだ、と改めて強く思うのである。
 
 父はもう何も話さなくなったし、瞼は閉じたままであるが、今も生きることへの精神力で闘っているようだ。
 私は、時々、よく頑張る子ども達に「頑張らなくても大丈夫だよ、今のままでいいんだよ」ということがある。
 今の父にもそんな気持ちである。
posted by nishioka   全般    

08.03.28, 01:04

最期の命への尊厳

 この数日、予想していた以上にやはりブログの影響は大きく、多くの方から「お父様は大丈夫ですか?」や、ご自身の身内の方の思い出と重ね合わすこととなり、涙が止まらなかった、などのメールを頂戴することとなり、大変申し訳ない気持ちとなっている。
 どんな人も必ず迎える最期の時を如何に、どこで迎えるのかという問題は、目をつぶることはできないことであり、いつ考えても遅くないのが実際のことである。
 平素、イメージが大切であると説いている私だが、やはり、自分の最期をイメージするのが怖いのが本当のところだ。
 どんな最期が良いか、考えたことがあるだろうか?
 一人で?
 家族の見守る中で?
 友人や知人など多くの人がいる中で?
 また、その中で何を伝えたいのか?
 その時の自分自身の姿を天井の上から見守るようにイメージしてみると、何となく見えてくるから大変不思議である。
 命を紡ぐ家族や自分の支えとなる友人たちの存在無くして、今の一日一日の生命は存在しないなぁと考えるのである。
 心から周囲へ「ありがとう」と言いたいし、それが言えるようにしっかりと生きていたいな、そんな感じである。
 でも、私は、家族や友人だけではなく、そこに従業員や教え子達もいてほしいなぁと真剣に思うのである。

 アクセス数50万企画を立てようと思っていたが、本日、既にこれをクリアしており、企画自体も発表できなかった。申し訳ない。
 最近はコンスタントに日に1,000以上のアクセスを頂戴できており、しっかりとより良い情報が提供できるよう、研鑽も積んでいかねばならないと考える。
posted by nishioka      

08.03.26, 23:57

the 47th 結婚記念日

 非常に個人的な話題となるが、本日は両親の47回目の結婚記念日であり、緩和ケアの看護師の方々とサプライズで、お祝いをしようということになり、またしても、私たち兄弟とその子ども達は万障を排して、一堂に会することになる。
 弟も妹の旦那さんも仕事を抜け出し、我が長男は、クラブから戻り、贅沢にもタクシーで乗り付け、結局、両親にとっては、子どもとその配偶者、そして、孫9名全員揃い組で、病棟のホールで短い時間ではあったが、お祝いの儀となる。
 母は全く、聞かされておらず、みんなからお花などお祝いの品やら、看護師さんたちからも寄せ書きの色紙やらが送られ、号泣していた。
 父も何となく、その様子を察知しているのか、嬉しそうで、思い出の一日となり、大変良かった。
 それにしても、緩和ケアの方々と一般病棟の方々との違いに正直、とまどうほどである。
 緩和ケアで働く方々は、何とか、患者さんだけではなく、その家族の方々の心身両面にわたる痛みの緩和に努められており、今回の両親の結婚記念日に際してのお祝いサプライズも自らご協力させてもらいますよ、と申し出られた程であり、私たち家族からすれば、大変有り難い思い出深い一日を頂戴でき、心から感謝してもしきれないほどである。
 人生の最期に、何ができて、何が享受できるのか、色々と考えさせられる場面の一つである。
 今日は、妹が父のそばで泊まるそうだ。
 事故で亡くなるより、本人は苦しいかもしれないが、みんな心の中でしっかりと挨拶のできるお別れの仕方も良いのではないだろうか。
posted by nishioka   プライベート    

08.03.26, 02:01

緩和ケア

 昨日から、緩和ケア病棟に移った父だが、それだけで大きな異変が起きたようだ。
 母に電話で確認すると、今朝からうどんをしっかりと食べて、人と電話対応までできて、「ありがとう」とはっきりと言ったそうである。
 この緩和ケア病棟、同じ病院でありながら、昨日の一般入院病棟とどこが異なるのだろうか?
 もちろん、内装の一つ一つも全く異なる。緩和ケア病棟は、所謂、病院らしくないのである。例えば、照明一つ一つにもこだわりと品があり、ゆったりとした空間と時間をこの病棟には感じるのである。
 ビジネスホテルとホスピタリティ溢れる高級ホテルの違いと言えるほど、雲泥の差である。
 だが、最も大きな違いは、医師や看護師さんたちの緩和ケアに対する意識の違いというのだろうか。更に言えば、患者さんだけではなく、相当、その家族にも自分たちの気遣いの領域を広げている印象が初日だけでも感じたのである。
 聞くことによれば、薬剤でもこの緩和ケア病棟なら使用できるものであっても、一般病棟では使用を制限されているものもあるらしい。
 どんな立派な人であっても、必ずその日を迎える人生最後の日をどれだけその人の尊厳を守りつつ、豊かに迎えることが出来るか、という問題は大きな命題である。
posted by nishioka   プライベート    

08.03.25, 00:44

父と二人で夜を明かす

 ブログで書く影響は私が想像している以上に大きく、結局、私や家族の病気について触れると、その後、ご心配をおかけすることになるので、これまで父の病状については、ブログにその詳細は書くまいと決めてきた。
 もちろん、父が亡くなったわけではない。
 だが、昨夜は初めて父と二人きりで夜を明かすことになる。
 愚息として、父への想いを綴ってみたい、そんな気持ちである。
 少し、初チャレンジとして小説風に書いてみよう。フィクションと思い、読んでいただければ、むしろその方が有り難い。

 深夜の病室は、同じ周波数で継続される冷蔵庫のモーター音と時折鳴るナースコールに規則的に反応する看護師さんの小走りに走るシューズの音だけが耳に残る。
 いやいや、そこに不規則に聞こえる父の苦しそうな声を忘れてはならない。
「しんどい」「痛い」
 父のかすれた声が私の耳に残る。
 この二つの言葉だけが今の父の発する日本語であり、他の日本語もあったはずだが、私も、父にオーム返しのように、
 「しんどいんだ」「痛いんだ」と言うだけが精一杯なのである。
 普段、饒舌な私が肝心な時には、言葉を失うのだから、自分自身でも情けない。
 唯一、私が別の言葉を父に投げかけた時があった。
 「しんどくても、がんばってね、でもね、お父さんは絶対に恵まれてるよ。お母さんも毎日お父さんのためによく看病しているし、三人の子どももその家族もみんなお父さんのことを心配してるんだから、得だよ。有り難いよね」
 その後、ありきたりのドラマなら、感動的な言葉が父から出て、その言葉を最後に父は逝く、などというストーリーがあるのだろうが、現実は全く異なる。
 父は、そう言われた私の言葉にも無表情のままで、重くなった瞼を閉じて眠ってしまった。
 それ以後、朝まで私が、先に挙げた二つの日本語以外使用する機会はないままだった。
 考えてみれば、これまで、私と父が二人きりで同じ部屋で朝を迎えたことなどなかったのではなかろうか。
 今夜は、別の意味でのアニバーサリー、記念日である。
 幼い頃からの父の記憶を回顧すれば、仕事人間、企業戦士以外の言葉が浮かばない。
 朝は私が目を覚ます前には、出勤しており、帰宅はもちろん、私が眠った後だ。たまの休日もゴルフでいないことも多く、あまり父に遊んでもらったことは思い出せない。
 それでも、小学校入学から4年まで続く父との交換日記は、今も私の宝物の一つである。朝、目が覚めて父から一行か二行書いてあるコメントを読むのが楽しみだった。
 飽きもせず、高校時代、彼女と交換日記が毎日書けたのも、遠距離恋愛だった結婚前の家内にけんかをしては手紙を書けたのも、今、毎日欠かすことなく、ブログを書き続けるのも、基本は、この時の父との交換日記に培われたものであろう。
 父は男として尊敬する人であった。目標でもあった。自分が好きなことをさせてもらえるのは、父のお陰だといつも思いながら成長してきた。ただ、これは、母がそのように言いながら育ててくれたことによる結果であり、父が銀行で働いている以外は具体的にどのような仕事をしているのか、さっぱりとわからなかったが、真面目で曲がったことが嫌いで、欲はなく、いつも家族を一番に考えてくれる人であった。
 私がしたいことは何でもさせてくれた。
 そう、あの日の父との大げんか以外は。
 大学生のある日、叔父が私に車を譲ってくれることになった。それまでも父の車は自由に使用させてもらってはいたが、自己所有の車に私の胸は高鳴った。
 父の車よりグレードはぐんと落ちるが、だれが見ても父の車を借りて乗っているとわかるよりも大いに魅力的であった。
 ところが、帰宅した父にその希望を伝えると、「車を所有する責任をおまえにとれるか!」と激しく叱責された。
 その言い方にも腹立たしさを覚えた私は最高に、いえ、最悪な抵抗を続けた。
 父の掌が私の左頬に襲いかかった。その痛みが体に伝わる前に私の右足は父のおなかに入っていた。初めてであり、最初で最後の父への暴力行為だった。
 母が必死の形相で私と父の間に入った。
「お父さんに謝りなさい」そんな言葉が母から言われたが、私は無言でその場をあとにした。
 翌朝、私の机の上には、見慣れた達筆の父からの手紙が便箋2枚にしたためられていた。
 書き始めの一行目は、今も脳裏に焼き付いている。
「武士たる者、一度抜いた刀は振り下ろさなければならぬ」
 父らしい表現だが、何のことはない。要は昨夜の殴った行為を正当化するものだったが、妙に納得できた私は、叔父に断りの連絡を入れたのである。

 そんな父が、やせ細っている。
 運動神経は抜群で、ゴルフはシングル、野球も器用にこなしていた。
 そんな父が、やせ細っている。
 人生の最終章に来て、父は何を思っているのだろうか。
 私が父に何をしてあげられただろうか。
 色々な父との想いが走馬燈の如く、頭を駆けめぐる機会をこの記念日に私は頂戴できた。外は雨音も聞こえるが、春の夜明けで白んできた。
 父の手を握り、「ありがとう」と心の声をかけてみた。

 そして、父は本日から、ホスピスとも呼ばれる緩和ケアセンターに移った。
 痛みが少しでも和らいで欲しい。
posted by nishioka   プライベート    

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